私たちができること
株式会社 畳deCo物 とは?
ご覧いただき、ありがとうございます
畳deCo物って、一体何なの?
字のごとく、 「 tatami de comono = 畳 で 小物 」を
オリジナルで製作する!!
ここからが全ての始まりです
畳deCo物 序章
「 序章 」
畳deCo物は、平成27年2月22日
株式会社 畳deCo物として
誕生・始動しました
実は、「株式会社 畳deCo物」誕生1年前は
個人経営時代があり
「 愛島 」と名乗っていました。
何で、愛島なのか?
私( 飯島義紹 )が
飯島であり、仕事に愛情を持ち
仕事をする!
簡単なことで「 愛島 」と決めました
当時、飯島だから「愛」
「愛」と言ったら「飯島」でしょう?
なんて言っていましたが
この頃から、作るものには愛情があるので
製作には妥協はしていません。
どんなに見てくれが悪くても、一生懸命な時間を費やしましたからね
今でも、サンプルとして残してあります
愛島時代
思い出すだけ濃密な時間が思い出されます、、、、。
平成23年?だったかな??
この年に、高校卒業時から就職していた
(有)大森商店 千葉県木更津市内の、畳材料商を退社。
11年?勤めていたのかな?
もう何年いたのかも定かじゃないのですが、、、、、
もともと、材料商にいたので
畳材料には少しは詳しいんです。
畳の道へ、、、
前職、(有)大森商店を
12月30日付で退社。
新年早々
ニートとして一週間以上ぶらぶらして、、、、、
週6勤務を10数年してきてだらけました。。。。
筋トレしたりyoutube見てたり
何もしたくなかったわけではなく
「 畳を自分で作りたくて 」
退社時期、世の中は偽装がはびこっていました。
畳業界も然り。材料商も偽装偽装。。。
これに嫌気がさし、お客を騙して正規の金額をもらう。
こんなことして、いいのか?
いいわけないよね、知らないからいいでしょ?
こんな考えの会社、ありえない
「 俺なら、製品表示のしっかりとした藺草・畳の芯材を使って、責任取れる仕事をする 」
この一心が退社理由でした。
千葉県 富津市絹 平間畳工業さん
1月半ばくらいに
ぶらぶらしていた時
富津市の畳屋さん「平間畳工業さん」から
飯島君、手伝いこれる?って
電話いただき、早速お手伝いにいき
しばらくお世話になりました
平間さんは、バリバリの体力の持ち主で
夜間仕事や夜なべ仕事をこなす
すごい畳屋さんです。
社宅仕事から、一般家庭の畳工事も
お手の物です。
1月から8月ごろまで、平間さんにお世話になり、、、、
ある日
一本の電話がかかってきました。
決意の分かれ道
一本の電話。
それは、千葉県館山市正木にある
(有)オサダ 日本一の称号があり
若くして海外で畳製作をしてきた社長からの電話でした。
「飯島何してる?お前、畳屋になりたいんだって?」
何で知っているのかこの時は意味不明でした。。。
のちに聞いてわかったのですが、長田さんは色々な畳屋さんに
飯島君は畳屋になりたいんだって!と聞いていたそうで。
ちょうど消費税増税の時期で、消費税が上がる前に畳を変える動きが出てきて
館山から千葉県全域をカバーする、長田さんは猛烈に忙しく
人手も必要だとのこと
「畳屋になりたいんなら、修行つけてやるから
やる気があるなら館山に来い」
この一言でした。
決めた、、、
あの日から、決意は決まっていました。
社長の下で修行する!
お世話になっている平間さんになんて言おう、、、、
なかなかいい出せなかったな
「 9月から館山に行きます。。。。。」
心苦しくて、お世話になってきたのに
もうこれないっていう迷惑もかけるし忙しいだろうし。。。
でも、平間さんは
背を押してくれたんです。
平間さんも長田社長に「飯島君は、畳屋さんになりたいらしいです」
と言ってくれた、畳屋さんの一人だったんです。
いざ館山。日本一の畳屋さんへ
9月半ば、館山市の
(有)オサダ に就職という形で
修行と仕事を習いに。
数日間は、毎日通っていたのですが
さすがに交通費もかかるのでアパート借りようかな〜。
社長と社長の奥さん、娘さんが探してくれて
アパートに住むことに。
この時が初めての、一人暮らし期間。
社長の会社は、猛烈な仕事量で1日じゃ足りないような感じ。
就職初日、「飯島、畳はそうじゃねぇ(仕事の仕方) 」って
言われたのを覚えています。。。。
大森商店でやってきたことは、ここの畳屋さんでは通用しないってことがわかった。
今までの仕事の仕方は捨てると決めた日。
衝撃的だったし、きつかったな。。。
仕事、仕事仕事ラッシュ
社長の会社の始業時間は早い。
7:30から仕事が始まる。
お客さんの家に8:00着でいく感じだ。
だから、今でも朝は何時からでも仕事に行くし
夜でも構わないです。
夜でも構わないのは、社長も全然余裕であったから。
社長の元で過ごした経験は大きな宝。
何よりも、人の温かさや優しさを教えてくれた職場だった。
増税の波と年の瀬ラッシュ
増税の波と
年の瀬、新年は新しい畳で迎えたい
畳工事のラッシュが重なり
毎日残業と
たまに早出があった。
社長の会社はしっかりしているので
残業代がつく。し、何より社長の仕事を
間近で見られる。とても素敵な時間だ。
目〜見開いて見てた。
年末で収まらない仕事は来年分におくることに。
年末の忘年会・新年会って、社長の会社で初めて体験しました
とってもたのしかったっす♪
熊本産地、見学
藺草の生産地である、熊本県へ
研修で社員さんと初の飛行機で行った。
大ちゃんは、熊本に行くのにパスポート必要だと思ったらしい。
懐かしいな♪
この日は、すでに雪が降ってたのかな、、、、
帰る予定が1日伸びたのを覚えてる。
木更津も大雪で館山もやばい積雪で。。。。
木更津より館山は寒くて暑い冬は、場所により水道が凍る。。。。
アパートの水道凍って水でないし。。。
熊本での研修は、とても有意義で勉強になったし
この研修があったからこそ、畳の材料、藺草の良い悪いがお客さんに言えます。
農家さんや卸問屋さんの説明があったからこそです
畳製作技能士 国家試験に向けて
年が明けても、社長のところには、仕事が飛び込んでくる。
さすが、社長の技術と信頼あってこそです。
忙しいからと言って、試験の練習をサボるわけにもいかない。
試験内容は、包丁・針・糸
畳材料を支給してもらい、新しい畳を枠の中の寸法に合わせ
手作業にて畳を一枚製作すること。それに、薄べり=ゴザを作ること。
制限時間内に課題を製作すること。
残業終わった後に、畳作ってたな
懐かしい、、、、1月から始めて9月まで練習練習の日々。
毎日、夕飯は深夜になってて
sukiyaの牛丼だったし、昼飯も作れなかったから牛丼もって会社いってたなー
牛丼様様です。
練習の前の筆記試験
筆記試験って何??
何の問題があるんだ??
社長と工場長は、普段の仕事でやる常識しか出てこないから
大丈夫!
えぇー大丈夫と言っても不安です、、、実技より怖いし。。。
試験問題集で勉強しつつ試験当日を迎えます。
筆記試験、最終お残り飯島
筆記試験、やっぱりドキドキです
試験って楽勝だわーなんて高校の時、思っていたのになー
怖いです〜。。。
一発試験怖いー
落ちたら来年もですかー
そんな不安を抱えた私は
試験問題の見直し回答、何回もやって気づいたら
試験会場内に飯島しかいないっていう、、、、
心配性の極みですね
続いては実技試験を迎える
畳製作技能士実技試験
飯島が挑戦した年は、飯島ただ一人。
畳屋さん、親方たちの目の前で畳を作る。
社長も当然試験官。
見つめる視線が熱いぜ、、、
何と言っても時間が足りないかも、、、、
畳作って、ゴザ作り
時間ギリだぜー
昼飯休憩なしでぶっ通しで試験続行
飯食ってるとだらけるし、よろしくないです
早く終わってくださーい!!!
何とか時間内に終わり
木枠の中にも収まり
ゴザの採点も終わり
何とか合格じゃない?
って感じで昼飯食べて
完了です!!
試験から解放されて、よく寝られた日の一つです♪
平穏な仕事のみの平和な夜
試験も終わり
あいかわらず、社長の元には
仕事が集まってくるけど
社長の元には、優秀な社員さんがいるから
どんなにあっても時間には終わる
試験期間には無理だった自炊もできるし
シャワーも好きな時間浴びれる
寝る時間もたっぷりある
開放感に満たされてた〜
バッチ合格しました
技能士試験無事合格しました
ようやく、技能士です!って言えるようになりました。
色々感慨深いことがたくさんありすぎて
毎日が緊張の日々だった
合格もして、社長の元に1年6ヶ月もいなかったのかな、、、、、
この年は、今からなら一昨年になるのかな?
木更津と今やらないと手遅れになることがあって
今年で木更津に戻りたいと伝えた。
社長に伝えたところ、仕方ないと承諾してくれました。
この時も申し訳ないなという気持ちでいっぱいだった。
そして、年内で館山の社長の会社を退社した。
木更津みなのば
館山から木更津へ戻ってから
平成26年1月15日 「 個人経営 愛島 」設立
かねてから作っていた畳での小物を
みなのばフリーマーケットへ
初の出店をしてみた!
この時は、畳の小物は畳縁のバックが主流で
小銭入れとか畳屋さんでなくても手芸の一環で主婦の方が作っていた。
そんな中で、「 愛島 」では
畳屋ならではの藺草と畳縁を使ってバックを作っていた。
藺草の加工は、簡単だと思いがちだけど
結構リスクもはらんでいるので
なかなか扱いにくいものだ。
みなのばフリマ 再び
この日も
愛島は、畳グッズを持って
みなのばフリマへとやってきた。
この日は、コメンテーターや音響製作の方が
珍しものはないかと歩いて散策していた
そんななか、畳での小物製作の愛島が目に止まった
なぜなら、愛島は足踏みミシンを持ち込んで
実演販売していたのだ
そのミシンは、juki ha-1
初期の家庭用の足踏みミシンだ。
電気なんかいらない人力ミシン
3月29日〜10月24日 メディア出演
千葉県木更津市羽鳥野 みなのばでの
フリマ参加以来、木更津内での
メディア出演が多く
色々参加させて頂きました
参加詳細は、マスメディア出演履歴に
載せてありますので
ご確認ください
http://r.goope.jp/tatamidecomono/free/rireki
地域クラウドin木更津 プレゼンター
今や全国規模にまでなりつつある
地域クラウド交流会
簡単にいうと
クラウドファウンティング。
木更津周辺で事業を起こそうとしている
経営者や事業家を応援しましょう!
という企画に、飯島義紹も選出されました。
この時点では、まだ愛島代表
飯島義紹として。
地域クラウドin木更津 プレゼン発表
地域クラウドプレゼンターは
全員で5名選出。
個性あふれる、5人です。
プレゼン発表まで何回となく
打ち合わせや内容の構成など
力を合わせ構成していきました。
愛島は、
「 畳について 畳の機能性 畳の真価 」
質のよい畳表と、質の悪い粗悪品との違い
経年変化が畳の真価を表すなど
発表させていただきました
https://www.youtube.com/watch?v=tLCkPeMZyxE
ここから、「畳deCo物」のカケラが生まれます
愛島時代 ショルダーバック?
このころの製作品は、今と比べてみると
なかなかの作品と出来栄えです
この頃があったからこその今。
この頃の作品が嫌いなのか?
いいえ
そんなことはありません
自分で生み出してきたものには、工夫とやり直し
失敗の連続が積み上がり
今の製作意欲と原動力。
旅行の代役 トラベルバック
千葉市の畳屋さんの
代役で旅行に行かせていただきました
この日の前日
「 、、、トラベルバックない、、、作るか、、、、、」
*無い物は作ればいい
突貫工事の形なのですが
畳deCo物の代名詞とも言える
タッシュケースの一号機の製作。
シンプル一択でした。
フタ留めのバックルもなし・肩掛けフックなし
色々なところが至らず何ですが
朝方の出発までギリで間に合うことができました
今現在でも、使用していますし
丈夫なのは間違いなしです。。
showルダーバック
新製品の作成につきものの
探しても見つからないし
他の人と同じものは欲しくない
やっぱり
世界に一つのものだと気持ちが入るし
大事にしますよね
作り手の気持ちとして、「大事にしてほしい」
それが私の、いちばんの願いです。
出かける際には、いつも連れ出している
私のお気に入りの
showルダーバック
製作の波
製作製作、の見直し改良の徹底により
さらにバックは進化を遂げることが叶いました
「 畳 x 日本 」とは何なのか?
伝統的なものは着物や刀
持ち歩ける畳とは?
そういった観点から捉え作り出したものは
「 畳 x 着物帯 」
まずは、この段階からです
新ジャンル参入
持ち歩くをコンセプトとして製作を進めいてきたのですが
ポスティング用として
3輪原付バイクが手に入ったので
普通のシートでは物足りないな、、、
無い物は作ればいい!!
作ったことないけど
何でもやればできる、、、
欲しいものはどうしても欲しいたちなので
「欲しい」を力にかえてました
畳deCo物®︎ タッシュケース「 雅 」
畳deCo物になり
あらたに複合的なデザインへと
アプローチします
いつも思うのは、既存の形に縛られていて
抜け出すことができないのか?
意識下の元で閉じ込められていないのか?
抜け出せないのか
何か新しいことに踏み込む時は、気分がいい。
何もない、規制があるわけでもないのに
縮こまっていたところから
自由を目の前にしてわくわくする。